西田幾多郎の宗教哲学を中心に

 顔写真明治以降の近代日本では、多くの場合、「哲学」といえば西洋の「哲学」を学ぶことを意味しました。しかし、何人かの哲学者は、単に外来の学問を紹介することだけでは満足せず、自分自身が生きてゆく中でぶつかっている問題に直接関わるような「哲学」を追求します。その中でしばしば、仏教をはじめとする東洋の伝統思想が、新しい視点から再発見されることになります。そういう動向に注目し、近代日本の哲学者?思想家が、どのような問題意識から、どのように仏教思想を自分のものとして受け取っていったのか、ということを考えるのが現在の私の関心です。
 特に、近代日本の最初の独創的な哲学者と言われる西田幾多郎や京都学派と呼ばれるその周辺の哲学者たちの「宗教哲学」、禅や浄土教といった伝統的な仏教を立脚地とした上で、新しい視点から仏教をとらえ直そうとする「禅思想」(鈴木大拙など)や「親鸞教学」(清沢満之など)を、相互の関係も押さえつつ全体的に解明する研究を企図しています。
 これまでの研究成果としては、平成25(2013)年12月に、単著『西田哲学と歴史的世界――宗教の問いへ』(京都大学学術出版会)を出版しました。西田哲学、特にその後期の思想は難解であるとよく言われますが、そこでは、現実の世界に生きる「自己」の構造の深層が究明されています。本書では、「歴史」という語に焦点を当てることによって、最終的に宗教的な立場に至る西田哲学の全体像を、一貫した視点から描くことを試みました。

                    
研究の特色

写真3学生禅道場「長岡禅塾」にて

学生禅道場「長岡禅塾」にて

 最近は、近代日本の哲学にしても、近代日本の仏教思想にしても、専門的な研究が進んできて、学会などではかなり細かいところまで議論されるようになりました。ただその反面に、それぞれの思想家の全体的な「人間」としての姿が見えてきにくい研究が多くなっているようにも思われます。私の理想としては、研究対象として選んだ思想家が、学者として以前に一人の「人間」としてどのように生きてきて、生きてゆく中でどのような問題にぶつかっていたのか、というところに立ち戻って、そこから彼らの言葉を読んでゆくような研究がしたいと考えています。
 研究の特色としてもう一点、それぞれの思想家が実践していた「行」(修行)の現場に敬意を払った研究がしたいと考えています。私自身は特定の宗派に属するものではありませんが、機会を見つけて多様な「行」の現場に触れてゆきたいと考えています。実は学生時代から足球即时比分_365体育直播¥球探网に来るまで、十数年ほど京都の学生禅道場に下宿させてもらっており、毎朝5時に起きて坐禅し、掃除をしてから大学に行くという生活を送っていました。哲学?思想研究の中にその経験が直接反映されているわけではありませんが、その生活がなかったならば現在のような研究は出てこなかっただろうとも思っています。

研究の魅力

 研究にしても、授業にしてもそうなのですが(「倫理思想史」の授業では、近代日本の思想家だけではなく、古代から近代まで幅広い思想家をあつかいます)、過去の思想家の言葉に触れ、それまで「あたりまえ」と思っていたことがひっくり返され、「あたりまえ」という壁に遮られて見えなかったものが見えてくるという経験をすることが、この学問の魅力だと思います。「あたりまえ」として押し付けられてくるものに対してどうしようもない窮屈さを感じているときなどに、全くちがった角度から世界を見る視点に出会うと、ふっと涼しい風が吹いてきたような清涼感を味わうことがあります。
研究の展望
 近年、大学で人文学を学ぶことの意義を否定するような発言がしばしば聞かれ、目先の利益を追いかけてそういう方向に流されようとしている大学の姿を身近に見ることもあります。そういう状況の中で、人文学を学ぶことの意義、哲学?思想を学ぶことの意義が、改めて問われていると実感します。そもそも「哲学」「思想」を学ぶとはどういうことで、それが「人間」の問題としてどういう意味があるのか、ということを根本から問い直してゆけるような研究がしたいと考えています。

この研究を志望する方へ

 過去の哲学?思想を学ぶことは、現在「あたりまえ」とされている《ものの見方》とはちがった多くの《ものの見方》を学ぶことです。現在の社会で必要とされている事柄を身につけるための勉強こそが、社会で有用とされる「人材」になるための勉強だとするならば、この研究はそれとは正反対のものに見えるかもしれません。しかし、現在の社会で「あたりまえ」とされていることに従うこと(社会の中で生きてゆくために、どうしてもそれが必要となることも事実です)の窮屈さに押しつぶされないためには、それとはちがった多くの《ものの見方》がありうるのだということを知っておくことが大切です。たとえば全体が左に進んでいるとき、私もほとんどの場面では一応は同じ方向をとらざるをえないのでしょうが、それが唯一の方向ではないことを知っており、必要に応じていつでも別の方向をとることができる自由な精神をしっかりと自分の内にもっておくこと。「哲学」「思想」を学ぶことはそれを可能にするものだと思います。便利に使い倒される「人材」(私はこの言葉が嫌いです)ではなく、自由な精神をもって自分の個性と能力とを生かすことのできる「人間」になってください。