自分を知り、世界を知る

諸田先生

私の「諸」はブタ(zhu)と同じ発音

? 私の専門は中国古典文学ですが、なかでも白居易(はっきょい)という唐代の詩人を研究しています。白楽天(はくらくてん)という字(あざな)でもよく知られている大詩人ですね。彼の詩文集である『白氏文集』(はくしぶんしゅう)には、三千首に近い詩と、多くの散文が収められており、日本文学にもたいへん大きな影響を与えました。『枕草子』や『徒然草』にも白居易の漢詩文が引用されていることは、みなさんもきっとご存じでしょう。また『源氏物語』の冒頭桐壺の巻では、桐壺の更衣(光源氏の母)の死を悲しむ帝(みかど)の姿が、楊貴妃の死を悲しむ玄宗皇帝の姿と重ね合わせながら描かれています。紫式部が抱いていた玄宗?楊貴妃の〈悲恋のイメージ〉は、主に白居易の「長恨歌」が源泉でした。

 

 

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華清池の玄宗と楊貴妃「長恨歌画巻」

 私の研究は、その「長恨歌」を中心とする〈唐代恋愛文学の研究〉から出発しています。「恋愛文学なんて陳腐なテーマだ!」と思う人もいるかもしれませんね。しかし、中国古典詩の世界では、伝統的に恋愛詩はきわめて少数しか遺されていません。日本の和歌、例えば『古今集』などでは、〈四季と恋愛〉が2大テーマになっています。ところが中国古典詩では、大きく事情が異なるのです。そうした、いわば〈硬派な世界〉のなかにあって、白居易は〈自分の恋心を率直に吐露した作品〉を数多く遺しました。これは〈特筆すべき個性〉なのです。玄宗と楊貴妃の悲恋を詠じた大作「長恨歌」も、そうした白居易の個性や恋愛体験が背景にあったからこそ生まれ得た傑作でした。
 そればかりではありません。唐代にはさらに「伝奇」と呼ばれる、短編小説のジャンルにおいても、恋愛をテーマとする作品が数多く生み出されました。例えば白居易の親友元稹(げんしん)の「鶯鶯伝」(おうおうでん)や、白居易の弟白行簡(はくこうかん)の「李娃伝」(りあでん)などはその代表作です。こうした作品も〈白居易とゆかりの深い人たち〉が書いているのです。
 こうした特徴に着目したことから、私の研究は、1.白居易を中心とする唐代の恋愛文学および2.関連する日本文学との比較文学的研究という方向に、展開していきました。

研究の特色

白居易関係の著書

白居易関係の著書

 挙げるとすれば、1.情の重視、2.歴史的文化的背景の重視、3.和文学との比較研究の三点でしょうか。〈1.情の重視〉とは、主に〈恋愛感情の重視〉ということなのですが、これも「文学研究としては当たり前?」と思う人もあるでしょう。しかし、中国古典文学の世界では、必ずしもそうではありません。恋愛感情は、むしろ〈婦女子の情〉として、軽視されがちでした。しかし、私はやはり〈感性や感情〉―特に〈美意識〉と深く関連する〈恋愛感情〉―は、文学研究のたいへん重要な要素であると考えています。いわば〈原点を忘れない〉ことを、心がけているつもりです。また、恋愛は確かに〈一対の男女〉の間に生ずる個人的な感情ですが、それを〈どう抱き、どう捉え、どう表現するか〉という〈価値観や表現の次元〉になると、その男女が生きた〈2.歴史的社会的文化的背景〉が、大きく影響してきます。

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「白居易研究年報」13号

 私はなかでも、唐代における〈科挙制度の充実〉と〈風流の美意識の形成〉という点に着目して、研究を進めてきました。その成果を2011年に『白居易恋情文学論』(勉誠出版)としてまとめ、出版しています。さらに、白居易の文学を日本文学と比較して研究することは広く行われているのですが、これを男性が主体の〈平安朝の漢文学〉と比較するのではなく、女性が主体の〈3.和文学と比較する〉という試みが、特色となっています。
 白居易の文学を日本文学と比較することは、たいへん魅力的な研究テーマです。そこで、中国文学と日本文学、双方の研究者が協力して、『白居易研究年報』という研究誌を、年に一回発刊しています。第13号(2013)は「琵琶行」という作品の特集号でしたが、私も編集を担当しました。多くの方々から原稿が寄せられ、600頁近い大冊となりました。白居易と日本文学とのつながりを探っていくと、その先にはとても深くて広い、文化的歴史的な世界を展望することができるのです。

研究の魅力

 〈文学を研究する〉という営みには、〈得も言われぬ魅力〉があります。それを一言で表現するのは難しいのですが、敢えて言えば、〈対話のよろこび〉とでも、表現できるでしょうか。人文学系の学問、なかでも〈文学や芸術の研究〉が、自然科学など理系的な学問と違う点の一つは、そこに〈研究者の個人的な内面世界〉が深く関わってくる、という点にあります。
 例えば、桜島を調査する地質学者の研究は、〈客観的な方法〉で行われなくてはなりません。科学者の行う実験や調査は、〈誰がやっても同じ結果になる〉というのが大原則でしょう。しかし、例えば二人の画家が桜島を描く際には、その絵は決して〈同じ絵〉にはならないはずです。なぜでしょうか。それは、桜島という対象に向かう姿勢が、科学者と芸術家とでは、まったく異なるからです。科学者は〈桜島を観測する〉のですが、芸術家は〈桜島と対話する〉のです。ですから、対象は〈同じ桜島〉であっても、話し相手(芸術家)が違えば、対話の内容(作品)は、大きく異なってきます。
 では、こうした芸術作品や芸術の研究は、〈普遍性を持たない主観的なもの〉でしょうか。いいえ、決してそうではありません。芸術家も研究者も、確かに〈一個人にすぎない〉のですが、その芸術や研究が〈対象の本質(真理)を明らかにしたもの〉であれば、それは〈人間の真理〉へと道を開くものであって、決して〈普遍性を持たない主観的なもの〉ではないのです。さらに、その際に重要な点は、〈芸術作品や芸術研究の価値は、それがどれほど《対象の真理や真実を明らかにしているか》という点にある〉ということです。桜島の絵について言えば、その絵がどれほど〈桜島らしさ(真実の桜島)〉を表現できているかという点が、究極的には〈絵の価値〉や〈画家の水準〉を決定するのです。

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二人の日本画家(加山又造?横山操)が描いた桜島(一部)

 要するに〈科学の真理〉とは〈仮説と事実との一致/正確性〉ですが、〈芸術の真理〉とは―〈正確性〉ではなく―〈対象の本質(真実)を明らかにすること/本質の明示性〉なのです。ということは、その桜島の絵が、どれほど〈桜島の本質を明示できているか〉を見極めるためには、それを見る人(研究する人)自身に、〈芸術(真理)を見極める眼力〉が必要とされるということにほかなりません。つまり、〈優れた芸術研究を行う〉ためには、研究者自身の〈優れた眼力を磨く努力〉が不可欠なのです。これが、先に述べた「文学や芸術の研究には、研究者の個人的な内面世界が、深く関わってくる」ということの意味なのです。つまり、〈優れた研究を行うための努力〉が、そのまま〈優れた自分の眼力(内面性)を養う〉ことに直結する。これほど魅力的な世界も少ないのではないでしょうか。

研究の展望

 私は〈白居易の文学を、もっと深く解釈してゆきたい〉、〈白居易との対話を、さらに深めたい〉と考えています。白居易の作品は、詩と散文とを合わせると、ほぼ四千作ありますが、現在〈その全作品に注釈を施し、日本語に翻訳する〉プロジェクトが進行中です。私もそのうちの何冊かを担当しています。これは、〈白居易との対話の基盤作り〉にほかなりません。こうした基盤に支えられながら、白居易の作品を、もっと深く解釈してゆくこと。また、それを通して〈普遍的な人間の真理を探究する〉こと。そうしたいわば〈哲学的な文学研究〉こそが、私の第一の目標です。
 しかし、こうした〈心理の内面に深く潜行してゆく〉営為は、逆のベクトル―〈世界へと広く展望してゆく〉こと―によって補われていなければ、独断に陥る危険を伴います。そこで、私の第二の目標は、白居易の文学を〈広い文化史的世界の中に位置づける〉こと、いわば〈歴史学的な文学研究〉ということになります。要するに、〈対話(作品の解釈)を通して、一人の優れた人間を深く広く知ること〉は、1.〈自分という人間を知ること〉及び2.〈人間の住まうこの世界を、理解すること〉に直結している。そのように私は考えています。

この研究を志望する方へ

 あなたが高校生だとすれば、ちょっと難しいな、と感じたかもしれませんね。でも、同じ事を、2500年も前に、孔子が述べています。「学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」と。―学んでも考えなければ、(物事は)明確にはわからない。考えても学ばなければ、(独断に陥って)危険である―。
 現代社会では、〈外向きに、グローバルに〉という側面だけが強調される傾向にありますが、それだけでは、実は〈足りない〉のです。その一方で、〈人間の内面世界に深く入り込み、その理解を通して、人間性の大切な真理を掴み取る〉態度が、〈人間性豊かな未来社会の実現〉のためにも、絶対に不可欠なのです。みなさんには是非、この点を忘れないでもらいたいと思います。
 中国の古典は、英知の宝庫です。皆さんも是非、時空を越える旅に、出発してみてはいかがでしょうか。

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フィールドワークで訪れた西安近郊の華清池   楊貴妃のお風呂