平成24年3月末退職の医学部総務課広報室 田中盛重室長から大学での思い出を寄せていただきました。
私が足球即时比分_365体育直播¥球探网に就職したのは第一次石油危機の衝撃もさめやらぬ昭和50年、国会では、赤字国債を発行するかどうかを巡って、喧々囂々のやりとりをしていました。その赤字国債が積もり積もって、国の行く末を左右することになろうとは。
私が配属されたのは、できたばかりの医学部、一期生が当時の教養部から上がって来たのと一緒でした。附属病院の敷地はまだ更地、そこでソフトボールをしました。当然、構内の整備は手つかずで、田んぼの畦道のようなところを通って通勤していましたが、真っ暗の中を帰宅していて、溝に落ちて、泥だらけになったことも。
私の仕事は、放射性同位元素に関する業務でした。就職直後から監督官庁への申請書を作り始め、3ヶ月後には、最初の申請、10月には承認が下りました。それから直ちに変更申請を行い、年度が変わるころには、現在の施設の原型ができました。この間、実質1年、新人にしては密度の高い仕事ができたと思います。就職してから20年ほどは放射線分野に携わっておりました。この間、スリーマイル、チェルノブィリを経て、原発の安全性と将来に危惧を抱くようになりましたが、それがフクシマで現実になり心が痛みます。その後、紆余曲折を経て、インターネットが公開され、普及し始めるとキャンパスネットワークに関わることになり、再びゼロベースのスタート、慣れない仕事に明け暮れました。元々は、欠員対策の「一時的な」はずだったのですが、補充されることもなく「平成の俊寛」と揶揄(やゆ)されたものです。ずっと後になって、体制を整備していただき、広報室という技術職員には珍しい役目もいただいて、今まで考えもしなかった様々な仕事にも携わり、定年を迎えることになりました。
最も思い出に残るのは、就職して何年か経ったときのこと。宿直明けの早朝、誰かが宿直室のドアを叩きます。開けると、女子学生が立っていて、開口一番、「早く教室を開けてください」。「時間が来たら開けますよ、少し待ってください」と答えると、「今日は内科の講義があります、早く行かないといい席が取れないのです」と返ってきました。教室の座席を争うほど熱心に授業を受ける学生の姿が垣間見え、感動しました。
私にとって、この仕事が幸せだったのは、学生と関わることが多かったことです。その関わりを通して、学生たちの高い志に触れることができたことは、私にとって、日々のエネルギー源だったように思います。
今も、仕事柄、卒業生からホームページを通してコンタクトがありますが、返事のメールを送ると、電話をかけてきてくれたりすることもあります。
最後に、私を支え、励まし、指導してくださった皆様方に心から御礼申し上げますとともに、足球即时比分_365体育直播¥球探网の今後の発展をお祈りいたします。長い間、ありがとうございました。