平成24年3月末退職の教育学生支援部就職支援課 久保泰敏副課長から大学での思い出を寄せていただきました。
「天職」に感謝
母校である本学の法文学部に採用していただいたのは昭和49年、22才の春でした。
机の上には、やたらと大きい電卓とインク壺が。引き出しには、ソロバンとガリ版用の鉄筆と硬筆用のペンとペン先が入っていました。コピーは湿式で、日に当たると字が消えてしまう「青焼き」で、印刷はガリ刷りでした。文書の浄書は庶務係のタイピストの仕事で、誰もがパソコンを使う時代が来るなんて、想像もできませんでした。
さかのぼって、入学した当時は、学園紛争の名残があちらこちらに残っていました。
教室の状態が良くなかったため、入学試験は県立松山東高等学校で実施されました。機動隊のジュラルミンの盾でできた林をくぐり抜けて、こわごわと歩いた記憶があります。
今でこそ大学は人気の就職先候補ですが、国家公務員採用試験に合格して複数の省庁からの誘いを断り、あえて本学を選んだ私は、級友から変人呼ばわりされました。
学生と教職員のバイク乗りに呼びかけて「セーフティクラブまつやま」を設立したのは30才でした。ホンダ安全運転普及指導員の資格も取り、当時理事を務めていた愛大生協に協力をお願いして「CO-OPセーフティライダースクール」を主催しました。
45才の春、縁あって弓削商船高等専門学校の学生課に出向させていただきました。
本学で教職員ソフトバレー愛好会を作り、たくさんの友人ができましたが、出向先の弓削でも、ソフトバレーやビーチボールバレー(砂浜の二人制バレーではなく、バドミントンコートの四人制でビーチボールを使うレクバレー)など、思う存分楽しむことができました。
弓削商船では全国高専体育大会の運営に携わり、帰学後は全国大学保健管理研究集会の当番校としての事務をこなし、新医師臨床研修制度スタートのために医学部に異動したのは50才の春でした。
この年に出場した松山地区国家公務員バレーボール大会で優勝を飾ることができたのはいい思い出です。もっとも、決勝打となったアタックを決めた後、下半身に激痛が走り、変形性股関節症と診断されて以来、スポーツからは遠ざかってしまいましたが???。
51才の夏、臨床研修病院指定申請関係書類の提出期限直前に初孫が産まれましたが、本省に送る書類の製本等の作業が深夜までかかり、駆けつけることができませんでした。
そして、農学部における5年を含む7年間従事させていただいた就職支援の仕事は私の性分に合っており、まさに「天職」と巡り会えたことに感謝しております。
最後になりましたが、なんとか職務を全うすることができましたのは、皆様方のお力添えのおかげです。心からお礼申し上げます。ありがとうございました。