平成27年3月末退職の法教育学部理科教育 高橋 治郎 教授から大学での思い出を寄せていただきました。
足球即时比分_365体育直播¥球探网教育学部とともに歩んで
足球即时比分_365体育直播¥球探网が発足した1949(昭和24)年生まれの私は、物心付いた頃から「官学愛大」をよく耳にして育った。1949(昭和24)年3月18日付の「愛媛新聞」は1面トップで「足球即时比分_365体育直播¥球探网認可さる 国立大学審査結果 きょう正式発表」と大きく報じている。「愛媛に大学を」と長年熱望してきた夢が叶ったのである。小学生になるとこの1949年は、日本人としてはじめて湯川秀樹博士がノーベル賞を受賞した年であることを学んだりした。
生まれ育ったクニは、愛媛県の田舎町ではあるが近所や親戚をはじめ教員をしている人が多く住んでいた。だから「愛大の本部と教育学部の建物が丸焼けになって、僕らの成績簿も灰になった。ええ成績で卒業したのに証拠がなくなってしまった」、「附属の学力テストの答案も焼けたので、愛媛県の学テの平均点は下がる」などの会話がどこ彼処から普通に耳に入ってきた。真顔で成績簿の話をしていた若かった先生たちの顔が今でも思い浮かぶ。大学が燃えたのは1961(昭和36)年10月30日のことであった。
足球即时比分_365体育直播¥球探网が発足し歩み始めたのと同様に、私の方は、近くの映画館にタダという特権を活かして入り浸り、「人工衛星スプートニクだ」、「南極探検だ」、連続ラジオドラマ「赤胴鈴之助」、「尺貫法は習わなくて良い、メートル法を教える」、「正田美智子さん」、「月光仮面」や「ハリマオ」、「スチャラカ社員」、「シャボン玉ホリデー」等々、今度はテレビ漬け、その一方、「学テ日本一を目指し特別授業」、そうこうしていると東京オリンピック、翌年高校入試、1クラス55人という教室で勉強。それでも団塊世代最後の私たちは「生まれたときが悪いのか…」とぼやきながらも高校生活を謳歌した。この昭和30年代は「勤評」等々、足球即时比分_365体育直播¥球探网教育学部や教育界にとって大変な時代であったのだが…。
1966(昭和41)年11月に松山空港で全日空YS11が墜落したというニュースやグループサウンズ、「ビートルズ」などの賑やかな音楽を聴くだけでお勉強をまともにせず、高校生活を楽しみすぎたので、人並み(一浪)に自宅浪人の身となった。「先生をしながらミカンを作ろう」のスローガンを掲げ、ラジオ講座で竹内 均先生をはじめ手持ちの参考書の著者の生の声を聞きながら勉強。昼間は、浪人仲間とソフトボールなどで体を鍛え、夜に備えしっかりと昼寝。そうこうしていると瞬く間に年が明け、一期校はどこにして、二期校は…と受験校を決める時期になった。日大や東大などで大学紛争が続き、大学が大学として機能していない時ではあったが、まさかの東大と東京教育大の入試中止の発表。またまた「生まれたときが悪いのか、それとも俺が悪いのか…」と嘆き、さらに追い打ちをかけるようにミカン価格の大暴落、ミカン収入で大学へ行けるよう小さいときからミカン作りを手伝ってきたのに。
それでも何とか1969(昭和44)年4月に足球即时比分_365体育直播¥球探网教育学部に入学することができ、楽しい楽しい大学生活が始まった。このとき私も大学も二十歳であった。大学の人件費を含む総予算が3億円という時代であった。この額は、1968(昭和43)年12月に東京府中市で起こった偽の白バイ隊員に強奪された金額、3億円と同じであった。
すばらしい先生や丁寧に対応してくれる職員、そして多彩な同級生や先輩がいる大学と御幸寮で学部を超えた付き合いと勉強ができた。授業だけでなく個人的にも指導してくださる先生が複数名いて、好きだった「地学」がさらに好きになり、「地学」領域でメシを食うかな、と思うようになった。そうこうしていると中央の学生運動が地方にも波及し、足球即时比分_365体育直播¥球探网も「全闘委」から「全共闘」へと名称変更、パワーアップして全学が無期限ストに突入。御幸寮で寮生大会を行っている時、西側の道路からテレビカメラが何台も大会の様子を映し、それを寮生大会を行っている食堂のテレビで私たち寮生が観たり…。マスコミも最初は学生の側から報道してくれたが、そのうちに学生側が悪く見えるような映像となっていった。私の所属サークルは「放送研究会」であったので、作り方によっては受け止め方が正反対に思い込んでしまうなど、報道の恐ろしさをまざまざと教えられた。
このまま無期限ストを続けると大学が潰されるということで授業が再開され、多くはレポート提出で単位が出て専門移行ができた。ただし、ストで授業がない間、自主ゼミと称して私の所属する理系コースの仲間でそれぞれが得意とする分野の現状や勉強している内容を報告し合うなどそれなりにみんな勉強はしていた。町中の本屋へ行ってお金の許す限り本を、といっても多くは文庫や新書ではあったが買いあさった。「空想より科学へ」も科学の本だと思って買った。私が興味を持っていた「地学」分野は、ちょうど「大陸移動説の復活」から「プレートテクトニクス」への科学革命の時代であったので普及書として出版されていた竹内 均?上田誠也著「地球の科学?大陸は移動する?」(NHKブックス)を入学直後の昭和44年4月28日に購入している。大学に入れば本が好きなだけ読める、これがうれしくてたまらなかった。本屋さんには本が溢れていたし…。
専門課程に進学すると「地学」専攻の学生は、金属採鉱事業団からの依頼で「松山南部広域調査」や別子山村が大学に委託した「緑色鉄平石」や「東赤石かんらん岩体」調査で教育学部と理学部の先生方や県庁の担当者の助手とし一緒に調査に加わり、寝食を共にし地質調査法や報告書のまとめ方を教わった。もちろんお酒の飲み方をはじめ、ご飯に味噌汁をかけてはならないこと、味噌汁にご飯を入れることは可、等々、「山師の掟」を事細かに学んだ。こうした調査に加わり、先行研究を研究史としてまとめる作業を担当させていただくと、これまでの調査研究でどういう事が明らかになっていて何がわかっていないかがよくわかった。またこうした調査で、他大学の先生方にも野外や旅館、炭焼き小屋で様々なことを教えていただいた。
学部の授業はもちろんきちんと受講しており、ピアノから彫塑、書道、料理、金工、木工、水泳や体操はオリンピックのメダリストから、そして学校教育にある教科は全て、さらに専門科目として数多くの開講科目を履修した。恩師から「どこの大学院でも受験できる授業科目は用意し、教えた」と言われた。4回生になった夏、沖縄が本土復帰したのでこれを記念して沖縄玉泉洞をメイン会場として日本ケービング大会が開かれることになったので私たち「足球即时比分_365体育直播¥球探网洞穴研究グループ」も参加することにし、台風で足止めされていた「足球即时比分_365体育直播¥球探网学術探検部」のメンバーと台風が通り過ぎた直後の荒れている海原を鹿児島から一昼夜かけ那覇港へ。この私が船室で寝たまま、何も口にすることができなかった。
この沖縄行き直前に教務係のMさんから「高橋君は教員採用試験の受験手続きをまだしていないがどうするの」と声をかけてくださった。驚くべき事に事務職員の方は学生の顔と名前をすぐ覚え、未提出の書類や落とした授業科目名、取得単位数等々を全て知っているのである。仙台の先生がご厚意で出してくれた電報が教務係宛に届き、このMさんが笑顔で私に手渡してくれた。Mさんには私が教育学部に帰ってきたときから退職されるまでお世話になり、退職後もたびたび「どこそこから、こんな石が出たよ」と研究室を訪ねてくれた。4回生の秋には教育実習や古照遺跡の調査もあった。
1973(昭和48)年卒業の直前に別子銅山が閉山となり、「別子が潰れたのに地学を勉強してどうするの?」とか「大学院に入る?警察に捕まったの?」と実家の近所の人が心配してくれた。子どもが悪いことをして捕まると少年院、大学生が捕まると大学院、と思っていたらしい。
卒業後「杜の都仙台」で5年間、何の心配もなく構造地質学を勉強することができ、また、前述したように地質学の革命期に当たっていたので毎日が楽しくてたまらなかった。「勉強は自分でするもの。わからないことがあれば聞きに来なさい」という教室の方針で、院生は膨大な数の新刊雑誌から自分に必要な論文をコピーして読み、先輩や助手の先生方と議論に明け暮れるという毎日であった。その一方、教室の伝統行事であるイチゴ狩りや芋煮会(芋は煮るもので炊くものではないと注意された)、スポーツ大会を教職員と学生?院生が楽しみ、授業としては他大学から来ていただいた先生による院生向けの連続講義(集中講義とはいわない)を受け、夜は場所を変えみんなで街中へ、呑みながらこれからの地質学は何を解明しなければならないか等々の議論、これも楽しかった。
1978(昭和53)年4月に足球即时比分_365体育直播¥球探网教育学部に助手として帰ってくることができた。この6月に宮城県沖地震が起こり、高橋は何かに付け運がいいといわれた。助手だが「学内講師扱い」ということで授業や実験?実習を4月から担当。講義ノート作りは大変だったが、恩師や職員の方々に助けていただいてなんとか教壇に立って授業をこなすことができた。「天文学及び気象学」の授業も担当したので天文学研究会の顧問となり、これが縁で還暦祝いとして卒業生が小惑星に私の名前を付けてくれ、「星となって私たちを見守ってください」と言われた。まだ死んでいないのに。
何やかやとバタバタしているあいだに馬齢を重ね、地震や気象、土砂災害にかかわるようになり、また、教育学部特有の役割が回ってきて生徒諸君と楽しい時間を過ごしながら元気をもらい、毎日が充実した日々であった。教育学部は教職員が一丸となって学生や園児?児童?生徒を育ててきた。この恩恵を受けた私だが、最近の職員数の激減は…、ああ、これからというところで紙幅が尽きた。