分子レベルの情報に基づいて溶液の「自由エネルギー」を計算する

研究の概要

エントロピーという言葉をご存じでしょうか。エントロピー増大則という言葉を知っている人もいるかもしれません。断熱条件下で物質の状態が変化するときには必ず物質のエントロピーが増加します。これがエントロピー増大則です。例えば、箱の真ん中に仕切りを入れ、その左半分にのみ気体を封入しておきます。仕切りを取り除けば、気体は右半分へも広がります。この変化が断熱条件下で起こる場合には、気体のエントロピーが増大します。これはエントロピー増大則の簡単な例のひとつですが、少し見方を変えればエントロピーが最大となったところで物質の変化は止まる、とも言えます。一方、このような状態変化を等温条件下で行う場合に重要となるのは自由エネルギーという量であり、等温条件下で物質が変化するときには必ず自由エネルギーが「低下」します。つまり、等温条件下では自由エネルギーが最小となるところで物質の変化が止まります。物質の変化が止まるというのは、「その状態が安定である」という意味になります。物質の状態が安定かどうかを知るには、自由エネルギーが最小値をとっているかどうかを見ればよい、ということになります。

少し話は変わりますが、タンパク質は細長い高分子であり、その形はかなり自由に変えられます。その中で最も安定な形は、自由エネルギーが最小となるものだと言えます。また、分子同士がドッキングする場合があるのですが、これも自由エネルギーの観点で理解できます。つまり、ドッキングした方がより自由エネルギーが低くなるのであればドッキングする、ということです。分子同士のドッキングは、薬の開発などで非常に重要な概念です。特に溶液中での分子ドッキングに関する正確な自由エネルギーの計算は、コンピュータによるドラッグデザインへつながるものであり、非常に重要な計算技術としてさまざまな方法が提案されています。

研究の特色

液体状態にある物質の性質を表す理論のひとつとして、積分方程式理論というものがあります。私はこれを利用して溶液の自由エネルギーの計算を行っています。自由エネルギーの計算方法としては、スーパーコンピュータ(スパコン)を用いた力ずくの方法もありますが、これは計算量が膨大です。特に溶媒が複数成分となっている場合(例えば水に電解質やアルコール等の共溶媒が溶けている場合)を考えようとすれば、力ずくの方法では現実的には不可能なレベルの計算量が必要となります。そこで、もっと簡単に(楽に)計算できる方法の開発が必要となっています。計算コストを削減したい、という意味です。私の使っている積分方程式理論は、計算コストの小さな方法のひとつなのです。しかし、計算コストの小さな方法には落とし穴があります。普通は近似を導入することで計算コストを削減するのですが、その反面、導入した近似が結果に悪影響することが多々あるのです。近似は近似でも、もしそれが正確であれば「計算コストが小さく」かつ「正確な」計算方法ということになります。私はこのような、計算の軽さと正確さを両立できるような積分方程式理論の開発を行っています。

研究の魅力

分子同士のドッキングなどを対象とする場合、積分方程式理論に含まれる近似の種類は複数にまたがります。また、分子同士の相互作用のモデルも複数の関数形を足し合わせたりします。これら複数の近似や関数形の組み合わせごとに、どこが不正確さの原因となっているのかを丹念に探っていく必要があり、それらひとつひとつに対して補正方法を考えます。最終的にそれらの補正方法を統合することで正確な積分方程式理論を作り上げていきます。近似やモデルの組み合わせが複雑であるため、ひとつひとつの原因を突き止め、計算法を改良していくのはパズルを解くような面白さがあります。このような改良には多くのアプローチがある(唯一無二の方法といったものは現状では存在しない)ため、研究者の経験や個性といったものも少なからず影響します。提案した方法が予測精度を実際に向上させるのは大きな達成感がありますし、分子ドッキング等の実際的な応用計算への期待が高まります。

水和自由エネルギーの実験値と予測値の比較
縦軸のΔμ_Sは水和自由エネルギーを表しています。水和自由エネルギーとは、各溶質分子を水に挿入したときの自由エネルギー変化のことです。水和自由エネルギーの低い溶質ほど、水に溶けやすいです。従来の予測法(補正なし)は水和自由エネルギーを顕著に過大評価する一方、本研究の結果は実験値にかなり近い予測値を与えています。

今後の展望

最近、人工知能(AI)の発展は著しく、例えばタンパク質分子の形などは非常に正確に予測できるようになってきています。しかし、分子ドッキングに関しては、現状のAIの完成度が高いとは言えません。またこれらの分野に関連するところでは、現状で開発されているAIは構造だけ(分子の形やドッキング後の分子の配置だけ)を予測する仕様となっています。そして、ドッキングによってどれくらい安定になるのか、および分子同士がドッキングしていく途中でどのような経過をたどっているのか等は、AIでは全く分からないのが現状です。これらを知るためには、結局、物理法則に根ざした自由エネルギー計算が必要となります。物理法則に根ざした方法もまだ開発途上です。将来的にはAIに加えて、スパコンを利用して力ずくでのドッキング解析もさかんに行われるようになるかもしれませんが、後者は計算量が膨大であるため計算コストの軽減はやはり重要であり続けると思います。一方、AIの今後として構造だけでなく、自由エネルギーの定量的な予測までも可能となるのかどうか、というのは興味のあるところです。

人工知能(AI)によるタンパク質の構造予測の例
左図は実験で求められた構造であるのに対し、右図はAlphaFold2というAIプログラムを使って予測した構造です。細かい部分に差異はありますが、全体としてはAIがかなり精度よく構造を予測していることが分かります。なお、このタンパク質はヒトのアミラーゼ(PDBの1SMD)です。
分子同士のドッキングの際の
自由エネルギー変化の計算例
この図は水中でクラウンエーテル(18C6)にカリウムイオンが近づく(ドッキングしていく)ときの自由エネルギー変化の様子を表しています。カリウムイオンの接近に伴い、自由エネルギーはいったん増加し、その後低下していきます。分子間距離がゼロ近くになれば自由エネルギーが負となっているので、これらの分子は自発的にドッキングします。これらの分子は比較的単純な構造なのですが、さらに複雑な分子に対してドッキング計算を正確に実施できるようにしていくのが今後の課題です。
出典:T. Miyata et al., J. Chem. Phys., 134 (2011) 044127.

この研究を志望する方へのメッセージ

自由エネルギーという概念は、学問分野で言えば熱力学や統計力学などで出てきます。物理学が基礎になってはいますが、これらは化学や工学などでも非常に重要な概念です。また、タンパク質やドラッグデザインといったことまで視野を広げれば生物分野や薬学分野にも関連があります。そして分子レベルから自由エネルギーを予測する際には数学やプログラミングといったスキルも必要です。マルチな能力が要求される反面、応用分野は幅広いです。コツコツと勉強を積み重ねていくことが基本的に重要であることは確かです。ただ、私としては好奇心の重要性を指摘したいです。いろいろなことを学ぼうという軽いフットワークを武器にして、興味のある勉強内容や研究テーマにチャレンジしていってほしいとも思います。