平成24年3月末退職の教育学生支援部教育センター事務課 玉井洋明課長から大学での思い出を寄せていただきました。
42年間の私の歴史
私は、昭和45年4月1日に教養部補導係に採用されました。あれから42年になります。その頃の教養部事務室の建物は、現在の校友会館の辺りにあり、「えみか」が第1食堂でした。学生紛争の真っ只中で、私より年上の中核?革マルと言った全学連等の学生に対して紛争の処理に当たっていました。昭和47年3月17日教養部事務長室(現ミューズ2階)が左翼の学生により占拠されたので、逆封鎖し、職員と学生の攻防がありました。暴行事件にまで発展し、傷害事件として職員10数名が被疑者になりました。この事件を機に急激に学内紛争が減ってきた時期でした。
昭和52年理学部へ異動後は、法文学部以外の5学部と教育学生支援部でお世話になり、すべて学務関係の仕事をさせていただきました。思い出は数々ありますが、その中の一つに、平成6年医学部学務課の時、係長含め4名が1名減の3名になり内一人は、新規採用の職員で、同時に看護学科が新設となり、4月末の入学試験に向けて過酷な業務をしたことです。土曜日曜はなく毎日夜中は当たり前、職場を離れる時間が午前3時の時もありました。この経験で、どのような困難な仕事があろうとできないものはないという自信が付いたように思えるようになったことです。もう一つは、平成12年、ここでも理学部学務係4名から3名で業務をすることとなり、事務一元化向けての教務課との事務分担も明確でなく、業務としては、非常に困難を来した時期です。学生の自殺があり、その親御さんと関わりがあったことから、静岡の沖合に葬儀を兼ねた散骨に招待されました。保護者に成績を知らせてなかったことのクレームがあり、これを機に学生の成績を保護者へ知らせることが全学的に理学部から始まったことです。その他、私は5学部すべて留学生のお世話させていただいたことも、学生と保護者また外部の方々との様々なトラブルに誠意を尽くして対応してきたことも今では感慨深い思い出です。私の勝手な思いですが、接した先生方とはうまく連携がとれた良い関係であったと感じています。
話は変わりますが、内村鑑三の「後生への最大遺物」の中に、人として生きてきて、後世に残すべき遺物は何かというテーマに「事業家にもなれず、金を溜めることもできず、本を書くこともできず、ものを教えることもできない。ソウすれば私は無用の人間として、平凡な人間として消えてしまわなければならぬのか」と自問している内容があります。それに対して内村鑑三は、何も持っていなくても「誰にも残すことができる最大遺物がある」とそれは「勇ましい高尚なる生涯である」と、私自身「後世に残せるものなら、崇高にして、勇敢な生涯を少しでも残してみたい」と念願しています。私は、この42年間学生のためにと心がけ、仕事をさせていただきました。今後も、その気持ちを保ち続けながら、次の時代を担う方々に託し、足球即时比分_365体育直播¥球探网の大いなる発展を願うものです。未熟な私を先輩方に育てていただいたことを感謝するとともに、皆様方に、アメリカの詩人ホイットマンの詩を紹介して終わりたいと思います。
「さあ、出発しよう!悪戦苦闘を突き抜けて、決められた決勝点は取り消すことができないのだ!」
本当にありがとうございました。