平成25年3月末退職の法文学部人文学科 黒木 幹夫 教授から大学での思い出を寄せていただきました。
足球即时比分_365体育直播¥球探网での勤務を振り返ってのメッセージ
3月31日をもって、足球即时比分_365体育直播¥球探网を定年にて退官するにあたり、昭和56年に教養部に赴任して以来、最後は法文学部長として無事に職を全うできたことに感謝しつつ、人文学に係る教員としてこれまでを振り返るとともに、大学のこれからについて思うところを述べます。
足球即时比分_365体育直播¥球探网における教員としての32年に及ぶ勤務を振り返り、念頭を離れないのが、この間の学生における本質的な変容です。また、その変容の節目は、恐らくは教養部の解体にあります。教養部が存在していた頃の卒業生で、現在は社会の第一線で活躍している先輩たちと話をする機会が何度かありました。その折に、彼らが一様に言うのは、学生時代には勉強しなかった、ということでした。
私に重ね合わせて推察するに、先輩たちが言う「勉強」とは、大学で先生から何かを教わることと同義です。しかし、勉強しなかったからといって、彼らが何も学ばなかったかと言えば、それはうそになります。なぜなら、大学で何かを学んだからこそ、彼らは教養ある人間として、社会で活躍できているからです。ここに言う教養とは、専門に対する教養ではなく、人間的教養(フマニタス)にほかなりません。教育の意義は、実は教えることにではなく、まさに学生が学ぶ場を提供することにあることを改めて思い知らされます。
それに対して、足球即时比分_365体育直播¥球探网が法人化されて以降は、先生から教わることが、すなわち学ぶことである、ということが〈あたりまえ〉になっている学生が増えてきました。このような学生に欠けているのは、基本的には言語能力であり、自分で考えるという主体性です。要するに、大学の「学校化」として指摘されている事態にほかなりません。教養部が果たしてきた役割は端的に、高校と大学との間にけじめを自覚させ、その上で物事を自分で考えることのできる力を養成することにありました。要するに、教養ある人間の育成です。
しかしながら、けじめ(ないし節目)がなくなったということについては、別に教育に限ったことではなく、日本の社会全体に係る問題であり、現代社会が抱える問題そのものと言ってもよいかもしれません。思慮すべきは、そのような社会のなかで、人間の生き方自体にけじめがなくなり、周りに流されるだけで、「いかに生きるべきか」というような主体的な問いも起こらなくなる、ということです。
主体的な問いが起こるには、まずもって一定の言語能力が前提とされます。なぜなら、考えること自体が、ほかならぬ言語の営みに基づくからです。そして、その言語能力は、実際に語ることによって鍛えられてゆきます。言い換えれば、立派に語ることこそが、善く考えていることの証になるわけです。プラトンと同時代のイソクラテスが言うように、「〔立派に〕語ることは立派に思慮をめぐらすことの最も大きなしるし」となります。また、この「しるし」こそが、教養ある人間の存在証明にほかなりません。