平成27年3月末退職の附属高等学校 辻 公正 教諭から大学での思い出を寄せていただきました。
附属高校の38年と校舎
1977年(昭和52年)4月に、学科増にともなう社会科の教員の補充により農学部附属農業高校に赴任して以来、38年間が経過し3月末で定年退職を迎えることになった。定年を迎える時に本校の校舎改築が終了するので、以下に主な建物の歩みを振り返ってみたい。
新採当時は、現在の1棟と2棟(いずれも74年5月竣工)、そして体育館(76年2月竣工)があるのみで運動場は造成中であった。そのため、75年と76年の運動会は大学の山越グランドを借りて実施している。私が1年目の10月の運動会は、工事中の運動場で開催したが、運動会練習前の「小石拾い」が大変であった。(翌11月竣工)また、新設された女子クラスの生活科学科の教室は、かつての旧校舎(現在の農学部会館と連合大学院の場所)の2階にあり、私も授業のたびに1棟の職員室(当時は「教官室」)から走って通った。たぶん、私が旧校舎に通って授業をした最後の世代の教職員だと思う。1棟?2棟?体育館は、まだピカピカに輝いていた。
その後、3棟の一部分が78年3月に竣工し、農業土木科と生活科学科の移転作業が4月におこなわれた。しかしこの時の建物は東側の約3分の1にすぎず、この3棟が全面完成するのは81年6月のことで、2階に生活科学科の3つのHR教室ができ、私も生活科学科の担任として職員室から3棟へ通った。ここに4学科(農業科?果樹園芸科?農業土木科?生活科学科)そろって授業ができる学校環境が実現し、当時の副校長は「念願久しかった1、2、3棟と全校舎の威容を仰いだとき、いよいよこれからが附属農業高校だなあ、と思った。」と述懐している。
4学科の卒業生は、79年3月に1期生を送り出して以来、計19回送り出し、最後の4学科の生徒が卒業したのが1997年(平成9年)3月であった。私はこの最後の農業科の担任をしたが、光栄であったと同時に4学科制が終了するという寂しさも感じた。その一方で、1995年4月に総合学科の第1期生を迎え、新たな学科制がスタートした。新学科で設置された新科目の実験?実習棟の建設が切望され、ようやく現在の4棟が竣工したのが2000年3月のことである。6階建ての建物は外観が白く映え、現在でも私にとってはピカピカの「新棟」である。4階にフロアー全体が使用できる多目的教室が設置され、学年集会が実施できるようになった。また、大学の先生方の講義もこの教室で受講することができるようになり、現在でも「高大連携授業」の中心となる場所である。
最後に、13年7月から15年3月にわたって、1棟と3棟及び体育館の耐震工事などがおこなわれた。この結果、1棟は外観も中身も一新し、職員室も2棟に移転し広くなった。また、2棟にあった理科や芸術の教室が3棟に移転し、私が担当してきた地歴?公民科が理科の空き教室に入ることになり、ようやく広い地歴科教室を確保することができた。この改築は、耐震の目的のみならず、本校にとっては2008年4月に足球即时比分_365体育直播¥球探网附属高校の1期生を迎え、足球即时比分_365体育直播¥球探网全体の附属高校として改組された新たな教育環境の充実のためでもあったのである。前述の副校長の言葉を借りるなら「いよいよこれからが愛大附属高校だなあ」であろう。
以上のように、私が見てきた校舎の変遷は、本校の改編?改組と連動しておこなわれたことがわかる。20代の時の「ピカピカの校舎」は、ヒビが入り老朽化が目立つようになり、定年を迎える時期に改築され一新を果たした。そして、私にとっての「新棟」である4棟も、いつかは古くなり改築がおこなわれるのだろう。その改築は、本校にとってどんな変化の時におこなわれるのだろうか。そして学校の景観はどのように変わっていくのだろうか。学校が変わることへの期待と少しの寂しさを持ちつつ、これからは外からその変わり様を見つめていきたい。